俺、ここで一体何をしているんだろう
"これをやりに行く"と決めて最初の目的地であるカナダへ飛びだった訳ではない。
「海外に興味があったから」
「就活してしまったら、もう抜け出せなくなりそうだから、早めにこのルートを断ち切って自分でやってみたいことに挑戦してしまうのは今しかない」
「英語の学習をしたい」
「海外で暮らしてみたい」
「外の世界ってどんなものなんだろう」
「日常が同じだから、いっそのこと極端に変えてしまおう」
こんなたくさんのモヤッとした考えが混じって僕は海外へ行って生活をすると決めたんだけど、特に毎日これをするぞ!と決めていたわけではなく、とにかく異国の地、文化の中でその瞬間に起こる出来事に対して
意識を向けてちゃんとそれを目だけではなく身体全体で味わおうとはしていた。せっかく海外に来たのに他のことを考えていたり、家やホステルに閉じ籠ったりするのは勿体無いから、とにかく外へ出ていろんな場所を歩いたり、人と話したり、偶発的な出会いをこっちから積極的にもらいに行っていた。
「日本にある一つの地域の世界観しか知らない僕」から脱却するために、無意識的にそのような行為をすることでなんだかその当時の自分にとって正しいことをしているように感じたから。
これから大人になって行くにつれて、世界がもっと移民でぐちゃぐちゃになるに連れて、一つの地域、一つのコミュニティーでしか過ごしたことがない人間はかなり痛い目に遭うのではないか、そもそも自分が他の世界を知らないという自覚すらないのではないか。
そんなことを大学生の時に、言葉ではなく直感的に常に頭の片隅にあったから、とにかくこっちで新しい人と遭うときは先入観を持たずにその人のやっている事、言っていることをそのまま受け止めた。
例えば、
「コーヒーの聖地であるニュージーランド、オーストラリアへ行って、私はバリスタになる」とか、
「ファームに行ってみんなと思い出を作って、たくさん稼いで日本に帰る」とか、
「寿司職人になってくる」
とか何かしらの具体的な行動目標みたいなものがあれば、ふとした瞬間に「あ、そうだ私はバリスタになるためにここに来ているんだ」と思えるかもしれない。
でも、さっきも書いたように特に目標も決めずに、ただここで生活をすることだけを選び、「その土地で出会った人々や街の雰囲気をそのまま身体で味わおう」みたいな思想が今ならこうやって言語化できているけど、当時はあった。
だから、日常を異国の地で生きていると、
ニュージーランドで向こうの山を見ながらバスを待っている時、
トロントのシェアハウスの庭にあるカウチに座っている時、
シドニーでサイクリングをしている時に、休憩がてらカフェでフラッワイを注文して外で飲んでいる時、
タイのホステルのベットから起きてきて、半袖短パン裸足の格好で、いつものカフェでコーヒーを注文し、向かいのマッサージ屋さんの看板をぼけーっと見ている時に、
なんていうんだろう、脳が一気に圧縮されたような感じで「ぐちゃっ!」となって、同世代の人が日本で何をやっているのかを想像して、その後に僕が今見えている景色を見て、
「俺はここで一体何をやっているんだ?!」と思うことが多々あった。
これはカナダ、ニュージーランド、オーストラリア、タイどこへ行っても気が抜けた時に急に飛び出てくる症状だった。
今までこう生きるべきと誰かにいきめられたことをやってきた人生だったから、自分で決めて、それが多くの他人と違う道だったことについて、多少なりの抵抗というか、脳みその適応期間、調節期間が必要だったのかもしれない。たまに現実世界で起こっていることにパニックにならないように、定期的にこうやって「ぐちゃっ」とさせて小さくショックを与えて分散させているというか。。
でも逆に僕からしたら、カナダで住んでいたシェアハウス、その他の国で住んでいたホステル、彼らは移民な訳で、僕たちの、そこにあるコミュニテーからしたら、自国の人間とは違う世界、時間軸で暮らしていることは僕らにとっては普通だった。
彼らと一緒に長い間過ごしていたから、自分が長期間、キャリアとかを手放して自分の心から出てくる野望に沿って生きていても、資本主義の現実を直視した時に、キャリアとかを想像して絶望しなかったのかもしれないし、それは分からない。
でも結局は
「そもそも自分がやると決めてそれをやっている結果、今の現実世界がそうなっているんだから、それが自分にとっての普通で、他は関係ないんだ。」 と僕自身がそう思って、また日常に戻って行くことが殆どだった。