「カズマー。もう2ヶ月経ったけどあなたがここのホステルで一番長く泊まっているよ」
シドニー、オークランドのホステルは1、2年と暮らしている人たちはザラにいたけど、ここチェンマイのホステルでは、2ヶ月間が最長らしい。
オーストラリアには、シドニー以外にも、パース、メルボルン、ゴールドコースト、ケアンズと冒険できる場所がたくさんあるはずだ。ニュージーランドやタイなども例外ではない。
でも僕はどの国でも同じ場所で長く住むことを選んだ。
なぜ僕は、同じ場所に住み続けるのか。
そもそも移動し続けると、新しい設定、用意、準備、移動、資金が必要だったからというのも理由の一つだが、もう一つ、なんというか、うまく言葉に表すことができないから、僕が経験したことを書いていって、その過程で上手い感じに最後表現ができれば良いと思う。
だから、僕が体験したことを書いていきます。
例えばタイのチェンマイで朝起きて、 ホステル内に併設されているカフェでコーヒーをもらって、 新しくチェックインしてきた人や馴染みのメンバーとゆっくり話して、(ときどき話が2時間にもなったりして、) ジムに行って汗を流して、 馴染みのスムージー屋さんでいつも頼むメニューの"D"を指差して注文して、 コワーキングスペースで作業して、 帰ってきたらどこかへ食べにいくか、 ホステル内のバーで食べる。 そのあとは夜の屋台に行ったり、 どこかどこか行った事のない場所へ散歩しに行ったり、 ホステルにいるメンバーとジョイントを回してハイになりながらGrabで頼んだKFCを頬張って、 そのままベットに気を失うように倒れて寝る。
こんな生活を繰り返していた。
滞在期間が長くなってくると、起きて部屋から出るとタイのおばちゃんが「グッドモーニングKaaaa」と言ってアイスコーヒーを僕の手に渡してくれるたり、バーでメニューを言わなくても料理が出てくるようになったり、馴染みの屋台ではおばちゃんと目を合わせて「いつもの2品」を表すようにピースサインをするとパッタイとカオソーイが出てくるようにもなった。
いつも食べ物を作ってくれる人、コーヒーを作ってくれる人、ホステルの部屋を掃除してくれる人、話し相手になってくれる人らと、
ただの顔見知の関係から、友達、さらには家族っぽいような関係を築いていく過程。
なんというか「自分がこの街に馴染んでいく過程」っていうのかな?それがすごく気持ち良いし、幸せなんだ。
何で、このような行為が気持ちいと感じるんだろう?
僕自身、今まで日本で生活していた時はとにかく引っ込み思案で、何のコミュニティーにも属しておらず、ヘラヘラと呑気に生きていた僕が、突然自分の意思で海外へ逃亡(人生の強制リセット)をしたことで、知り合いも、常識も、言語も違うところで、誰も僕のことを気に留めていない場所で、もう一回、周りを基準に自分を判断しないで、自分の好きなように、思ったように、やりたいように、心の声を聞いて生きてみる。
そんな環境になってから、地域との密着というか、地域の人と触れ合うことで僕自身が一体どういう人間なのか、街の人と触れ合って僕はそこから何を感じるのか、についてとってもとっても興味があったし、これから人生を決断していく上で、これらがとっても大事な「自分はどこへいくべきか」の判断材料になると思ったんだ。
"思ったんだ。"と書いたけど、実は無意識にそれをやっていて、今こうやって旅を終えて自分を俯瞰してみることで「あ、こういうことだったんだな」って思たんだけど。
新しい人と話すと、まず自分が誰なのか、相手が誰なのか、僕たちはどこのエネルギー派が似通っているのか擦り合わせるのに毎回手間と時間がかかる。
だから、すでに仲良くなっている人と、毎日毎日期限付きで触れ合って、笑って、感謝を伝えて、そこから僕自身とは何かを知ることって、もっともっと深くできると思うんだ。何でかはうまく説明できないんだけどね。
しかも旅が終わっても、一定期間家族のように濃い時間向き合っていた人たちがいれば、旅が終わっても、僕の心にはずっと彼らが残っているんだ。これってすごく素敵なことじゃない?とっても美しいことじゃない?!
1週間程度の予定を組んでくる観光者らには到底分からない街の細かいことが日に日に分かってくる感覚も面白い。
Google Mapを必要とせず、毎日ルーティーンのように馴染みの場所へ、当たり前のように向かっている自分がたまに「俺は日本で生活していたけど、何で今シドニーのキングスクロスにあるベトナム人のバリスタと当たり前のように世間話をしているんだろう」「自分は一体ここで何をしているんだろう」って考えて、頭が一瞬グラグラする感覚も面白い。
「朝起きた時に、ここはどこの国だ?!」って一瞬脳がグラッとする感覚も最高に不思議でエキサイティングだ。
観光地にわざわざ足を運んだり、おしゃれなレストランに行ったりと、外に刺激を求めなくても、普通の生活をしているだけで毎日が不確定で、どこに向かっているのかわからなくて面白いんだ。(これは、同じ場所にいるというタイトルの文脈とちょっとずれているよね。でもいいか)
観光地として「一瞬いって終わり」ではなくて、今度あそこへ戻ったら、会う人がいる。一回訪れてみる場所がある。その保証されている場所があるだけで、何というかな、逃げ場というか、心の安らぎというか、希望の分散のような安心感を持って日本にいてもそんな心持ちで毎日生活できているんだ。
こうやってチェンマイが自分の居場所と言えるようになってくる感覚が、もう一度言うけど、なぜかは分からないんだけどたまらなく面白いし、気持ち良い。
その結果、チェンマイという街だけではなく、そこで出会った人がただの”海外で会った人”ではなく、”将来再開したい自分の家族のような人たち”のような感覚になってくるんだ。
僕の家族には悪いけど、世界であってきた彼らは、もはや家族よりも家族なんだ。
「家族に自分が成長した姿を見せたい」というのは多くの人が思うかもしれない。 それは、僕自身が、「自分は成長したんだよ」と認めてもらいたいという想いが心の底にあるのかもしれない。
ホステル生活によってそのような人が数人ではなく、何十人と世界中にいたら、やっぱり再開した時に良い男になっていたい。 だから自分の人生の時間を無駄にはできない。
それくらい強い関係を僕は各国のローカルに根を張り生活していたとも言えるのかもしれない。
観光で会った一過性の関係は時間が経てば薄れるかもしれない。でも今回のホステル生活で長い時間を使って築いた関係の人たちっていうのは中々僕の頭の中から消えない。
あそこで、あの時、彼ら彼女らと別れても、もらったエネルギーはいつまで経っても消えずに、ずっと僕の心に残っている。
このような定住移動生活で、自分が街に溶け込んだような生活をした結果得られるものは 「ここの観光地が良かった、これが美味しかった。」というような表面的なものではなく、 「家族のような関係になった人と、いつ再開するかを胸を膨らまして毎日自分を向上させながら生きることができる、希望を持ち続けながら生きることができること」だと僕は思うんだ。
この未来の希望に満ちた気持ちは、何事にも変え難い。だって、明日の朝起きる意味が僕の中にあるんだから!
自分の人生の時間はもう無駄にできない。毎日自分をを向上させてまた、彼らと会うために。
そんなことを思いながら僕は今日を生きている。
旅とは、どこに行ったかではなく、誰に会ったか。これに尽きるとぼくは3年と3ヶ月の海外生活の中で思う。
自分の直感を信じて進み、その道中であった人との間で起こった"何か"、そこから感じた"何か"
そこに人生の美しいさがあると僕は思うんだ。
[何で引っ込み思案で海外へ行ったのか。そこをもっと書けば引き込まれると思う。もう嫌だったから自分を変えたいでもどうすればいいかわからない。まずはリセットとして環境変えてしまえ]