日本の外に出て感じる恐怖

移民が多い英語圏に住んでいる人って、日本に住んでいる日本人と比べて体を鍛えている人多くないですか?

もちろん

「モテたい」 「舐められたくない」 「街にいるマッチョが多いから結果的に自分も」 「ステータスとしてみられるから」

など、理由があると思います。(僕もモテたい、舐められたくない!)

じゃあ、なぜ日本にいる日本人は、全体的に体を鍛えている人が英語圏の人と比べて少ないのでしょうか? (もちろんデータがある訳ではないので、本当に日本人で体を鍛えている人が少ないかと言われたら確実には答えられませんが、僕は英語圏の街を歩いていて、「マッチョとすれ違うこと多いな」とよく感じます。)

「そういうカルチャーだから」といって思考を放棄して片付けてしまうのは、海外生活をしてきた僕自身が許さないというか、ちゃんと言語化して僕なりの考えをここに残しておきたいんです。

それを「ホステル日記」の一部に組み込んでまとめていけたらなと思って、"トロント番外編"に書くことにしました。(もちろんトロントにも関係しています)

さて、先ほどにも書きましたが、モテたい、舐められたくない、ステータスとしてみられるから、というのももちろんあると思います。

それに加えて僕は「いつどこで暴力が発生しても、対応できるようにするツール。自己防衛。」として体を鍛えていることもあると思います。そしてここが日本と大きな違いなのかな?と考えています。

なぜそう思うのか、自分の体験談を交えて話していきます。

僕がトロントに1年間住んでいた時、目の前で人が刺された場面を2回目撃しました。(センシティブな内容なため、描写はしません)

目の前でそれを目撃した時に、鼓動が早くなって本能的に「強くならなきゃ」って決めたのを今でも鮮明に覚えています。

現地のニュースを見ていると、ほとんど毎日「どこどこで人が刺された」というニュースが流れていました。特に冬に多かった気がします。(カナダに住んでいる方は共感してくれると思います。)

じゃあ、なぜそもそもこういう殺傷事件が頻繁に起こるのか、なぜ日本でこれをあまり体験しないのか。これについてデータが無しの、僕なりの仮説を実体験から書いていこうと思います。

「移民が多い国」これってどういう意味かというと、「何考えているか分からない人種が自分の生活範囲に紛れ込んで生活をしている」ってことだと思うんです。

日本はほとんど日本人で人口が占められています。そして、「日本人である」というだけで、お互い大体何を考えているのか、どういうところに気を遣えばいいのかという常識を共有していますよね。

電車では静かにするとか、お辞儀をするとか、エレベーターでは静かにするとか、、

もし、エレベーターの中でイタリア人、コンゴ人とかが乗ってきたらどうします?どうもせずに静かに乗っているでしょうけど、自分が戦える体でないと、内心恐怖感じませんか??

英語圏で、このような狭い空間で誰かと一緒になった時は、多くの人が相手に対して目があったらニッコリします。それに加えて僕の場合は、舐められないために目線は下げません笑

ニッコリする人たちを見た時に最初はそういうもんなんだと思ってなんとなく自分も口角を上げて返していたのですが、生活していくに連れて、これって「私は危険な人物ではありませんよ」っていうサインを暗に示しているっていう事に気がつきました。(本当かどうかは分かりませんが、共感してくれる人もいるはずです。多分。)

やっぱり自分の国ではない人が大量にいる地域だと、相手が何を考えているのか、はたまた常識すら共有できません。

こういう状況では、「自分は安全な人間であるよ」「見ろよ、俺は体を鍛えているだろ。大きいからちょっかい出してくるなよ」こういう"口に出さずに共有できるサイン"って結構大事だったりすると思うんです。

だからなんていうんでしょう、、街を歩いていると、いつ何が起こっても大丈夫なように体が本能的に戦闘体制に入っていた気がします。

こういう環境にいるからこそ、モテたい、舐められたくない、ステータスだからという表層的な理由だけでなく、自分の身を守る「防衛機能」として体を鍛えることってかなり、こういう移民が大量にいる国で生活をしていると必要になってくると僕は思うんです。

日本に帰ってきた時に、「こいつら何か起こった時に対応できる準備はできているのかな」「暗い道でヘッドフォンしてスマホを見ているってやばいな」と思ったのですが、ある程度同じ人種で、常識が共有されているという前提で社会が成り立っているので、まあ別に鍛える必要はないのかな。。安全な国なのかな、、、まあ、俺はあなたたちがどうなっても知らん笑

ちょっと強めな言い方になってしまいましたが、最後に僕の好きな村上龍の「全ての男は消耗品である」というエッセイの中にあった引用を置いて、終わろうと思います。

身近な敵、あるいは身近な他者、つまり話が通じなくて、緊張関係にある人間がすぐ近くにいるという事態に慣れていない。

[話が通じない、そんな時にできる判断材料は体が大きいかどうか] [タイトル:自己防衛としての肉体]

これまで、クラウディオ、ホアキン、ラヴィー二ャ、ジムについて書いてきたけど、あまりピンとこなかった人もいるのではないだろうか?

Ryu Murakami. MEN ARE EXPENDABLE VOL6: From Oct 1998 to Mar 2001 (Japanese Edition) . Murakami Ryu Denshibon Seisakusho. Kindle Edition.

危機管理をしてこなかった。

カナダの刺した事件、それによって公共の場では油断できない体になったこととか、なぜ日本にいるときはそれを感じなかったのかとか(震えて動けなかった。最初に思ったことが腕立てしなきゃだった。これはもう本能的なものなのかもしれない。)

日本で一生を生活していたら、これはわからなかったことだ。海外で数年ほど生活したのかなことがない人にこれを説明してもなかなか理解してもらえないのは"日本"という環境にいる以上、仕方がないことなのかもしれない。

[番外編として、トロントのところに書けば、何となくいい感じになるかな。] [これは、筋トレ系だけど、番外編みたいな感じで、また新しく書くかな。]

日本人に、#1と#2を書いても、あまりピンとこない人のために、カナダでの殺傷事件やその他海外で味わった恐怖を具体例で書いていく。

そして、この恐怖がヤクザや、危ない環境で暮らしていない限り、なかなか共感してもらうことは難しいだろう。そして、「ジムに行かなければ、男として生き延びれない」という屈辱的な体験を日本では身をもって体験できないのではないだろうか。

ホステルで、自分より強い男が周りにいられると、怖くて安心できないというか、家だから。だったら自分がでかくなって、相手が怖いと思われるような人間になった方が生きやすい。

だから、日本で普通の環境で育った人が「ジムに毎日行こう」とかなるのは難しいのではないか。そしてその中でも、ジムに行っている人は、言い方が悪いかもしれないが、「おままごと」をやっているようにしか僕の目には映らない。なぜなら日本はとても平和だから。

必死にやる人は、やはり何かしらの形で、日本の外の影響を受けている人が多いのではないかと僕は考えている。

健康のため、体型維持のためとか行ってジムに行くやつとは、全然トレーニングに対する本気度が違うと僕は感じていて、「強くなりたい」「舐められたくない」という常に感じる危険なネガティブなエネルギーから発せられるエネルギーには「健康のため」とか言ってくるやつは絶対に勝てないということを僕は知っている。

逆に、「体を鍛えなければいけない」という恐怖に駆られることがないほど、平和な国に我々は生まれて生きていることを自覚して欲しいと思う。

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伝えたいこと

#1,#2で行っていることが、日本にしか住んでいない人はパッとしない感じがするから、一応どういう思考回路でこうなったのかを説明する章。という位置付け。

かなだ、ホステルデカいやつ。行かなければならなかった。日本はそういうことを感じない平和な国に僕は」住んでいたんだと自覚した。