ホステルに着き、チェクイン。部屋はRoom11。
ドアの前でもらったカードをかざすと「カチャッ」という音がして開いた。
「お前日本人か?」
ゴリラ並みの筋肉量があり、右手と左足にドラゴンのタトゥーが入っている男が、無邪気な子供みたいに目をキラキラさせて僕に話しかけてきた。8人部屋のRoom11にいたのは、僕とこのゴリラだけだった。

「近づいてくるだけで強い動物のエネルギーを感じる。」
彼は英語が話せないみたいだったのでお互いの会話は翻訳アプリを介して行っていた。



このゴリラは、チリ人でクラウディオという名前らしい。
彼は40代で、彼の子供と奥さんの話、仕事の話、身体の至るところに刻まれたタトゥーの話、格闘技の話と、時間が許すまで話が続いた。多分僕が強制的に切り上げない限り、永遠に続いていたんだと思う。
しまいには柔道の話で盛り上がって技をかけられたり、ジャブの仕方を教わったり、、初対面だけどクラウディオの人懐っこさに助けられてお互いの関係がすぐに縮まった。
「40代」と聞いて「ん?!」と思った人もいるかもしれない。
僕も初め、ホステルは若い20代の男女が生活しているものだと思っていたが、30~60代の人たちも住んでいた。
こういう環境で暮らしていると、「人生は自分で責任が取れれば、どんな形で生活しても全く問題ないんだな」とつくづく感じる。
同じジャンルの人間と長い間一緒に生活していると常識が凝り固まる現象が起こって、異なるジャンルの生き方をしている人を見ると「何やってるんだろうあの人」と嫌悪感を抱くことがその当時の僕にはあったんだけど、
「異国の地のホステル」という異世界へ思い切って飛び込んで生活してみると、
「人生って人の分だけ、色んな環境から育ってきて、色んな影響を受けてきて、そこから生まれる生き方のスタイルも色々あるんだなー。」
って、なんだかとっても抽象的な表現になってしまうんだけど、実感することができた。
20代前半でこのホステルという環境に身を置いて生活できたことは、キャリアとしては同じ年代の人と遅れをとってしまったけど、「人生」っていうものを、忙しく過ぎる毎日、同じジャンルの人と固まって生活している毎日、から一旦飛び出して、一度物理的に遠くまで離れて俯瞰して色んな人の生き方のスタイル、文化を覗いたり、「自分はどういうスタイルが良いんだろう」って立ち止まって内省する時間を取れたと思っているから僕自身は良かったと思っている。
Aという物事を同じグループとずっとやってもいい、でもBをやってみたり、Cをやってみたり、事情があってDをやらなければいけない場合だって出てくるんだ。人生は何が起こるか予想できないんだ。家族を養うために異国の地へ行ってお金を送った方が良い場合だってあるんだ。
だからさ、他人、友人、家族がどうとかではなくて、自分が「これでいい」「これをすべき」と心の底から思えれば、その責任を自分で取れるなら、それをやるべきだと思う。人生はどんな形だって良いんだな。
後悔だけはしたくないよね。最後は自分が「良かったー俺の人生!」と思えるかどうか!
クラウディオはエネルギーがあるし、目がキラキラしている、そして何よりもピュアだった。
会話はその後もある程度続いたが、翻訳アプリのタイプミスがあったり、音声の入力も正しく機能しなかったのか、諦めて僕に非言語でも対応できる動画を見せてきて日本のメタルについて熱く語ってきた。
かれこれ30分くらい経つけど、彼の話は終わらない。
のちのちホステルで様々な国の人と会って気づくことになるが、ラテンの人は大体話し始めると止まらない。話し相手がいないと話したくてウズウズしている雰囲気が伝わってくる。話題が途切れても、次の話題を探して何としてでも会話を途切れさせない。
マグロは泳がないと死んでしまうらしいが、ラテンの男どもは話さないと死んでしまうのではないかと僕は本気で思っている。
こうして長い自己紹介的な会話が終わった後、「外に行こう」みたいなジャスチャーを僕にして、ホステル内を彼と一緒に見て回った。
廊下やプレイルームにいるラテンの友人たちにすれ違うたび、彼は顔をあげて相手の目を見て、"男っぽく堂々と"人と接していて羨ましかった。
「みんな彼を知っているようだったから、住んでいる期間もまあまあ長いのかな」
英語がわからなくてもジャスチャーで話しているのをそばで見ていて、
「英語なんて二の次、まずはコミュニケーション、話してみる!」
という彼の姿勢が刺さった。
僕はワーホリに来る前に、英語がある程度話せるようになるために結構準備した。(大学の頃、簡単な洋書を図書館で読み漁ったり、キャンパスにある無料の英会話教室に通ったり、英語の動画、音声コンテンツを消費しまくったり。)
でも彼を見ていて思ったのは、その入念な英語の準備って裏を返せば「自分の自信のなさ、不安の現れ」からくるものだったのかもしれない。
もし彼みたいに堂々とできたら、"そのままの自分"で異国の地に飛び込んでも怖くないのかな、
「行けばなんとかなるでしょ!英語なんて、俺なんだから大丈夫!」みたいな感じで突っ込んでいけたのかな。
彼の行動を終始そばで見ていて、「男のテストスレロン値が全てを決める」とかいう言葉を信じていなかったんだけど、
そもそもの動物的なエネルギー値が高ければ不安になるっていう状況は少ないのかもしれない。
そもそも自分がゴリラ並みの筋肉で、周りが自分より小さい人間だらけだったらビビる要素ある?不安になる要素ある? 何かトラブルがあったら、最後は暴力で解決できると心の内で分かっていたらビビる?
この時点で、自分とクラウディオを同じ「男」として比較したら、かなり自己嫌悪になったのを今でも覚えている。
「なんで俺は今まで彼みたいに自信満々で生活ができなかったんだろう」 「男として強いと人生こんなに楽なのか?」
彼が話せる英語は、
「ワン、トゥー」 「キャッシュ、マニー、バンク」
、、これだけだ!笑
自分が情けなくなってきた。。
なんていうんだろう、彼の場合は「どうやったら自信を持てるか」とかの以前に、物理的に体が強いから、「自信なんてあって当たり前じゃん?」っていうように僕の目には映るんだ。
しかも、彼は会話ができなかったら翻訳機で「お前がスペイン語を話せ」とも初対面のやつに言ってるんだ!はは。もうここまでくると笑っちゃうよね。
こんだけゴリラみたいながっしりとした体があったら彼から見て怖い人はいないだろうし、話しかけられた相手も本能的にしっかり聞かなきゃ。と思うだろう。
物理的に体がデカいというアドバンテージで、人間ってここまで差が出るのか。。
どれだけデジタル社会になっても、急速にテクノロジーが進化しても、人間の本質の部分はそこまで変わらない。
デカくて強いやつがいたら、本能的にリスペクトするし、相手はそいつとはあまりトラブルを起こしたくないから丁寧に接するはずだ。
もし僕がずっと日本に住んでいたら、体の大きさの大切さに気づけなかっただろう。
日本は日本人がほとんどの人口を占めていて、ある程度「日本人同士の常識」が共有されているから、誰が何を考えているのか大体分かる。
しかし、僕が一年前住んでいたトロントなどの"移民が多い都市"へ来ると、日本人同士で共有していた常識的なものはここでは意味を持たず、街の人が一体何を基準に物事を考えているのか把握しづらい人間らが、自分の生活の範囲内に存在する状態で生活することになる。
そこで生じる「人々の常識の差異や摩擦」でどうしても争いが起こる頻度が多くなってしまうと、僕は今までの海外生活の経験から考えているんだけど、
だからこそシンプルに「体がデカい状態でいる」っていうのは人間の本能的に、国や言語を超えた動物レベルで
「危険だな」 「リスペクトに値する」
というシグナルを相手に与えることができるから、とってもとっても自分の身を守るためにも、トラブルを避けるためにも、気にかけている友人、恋人を守るためにも大切なことなんだとクラウディオとの生活を通して僕は痛感した。
「体のデカさ」が男として生きるためにあらゆることを解決する一つの要素であるのは間違いないという事を僕の中で結論付けた。
実際、ホステルに住んでいる男たちはガタイが良いヤツだらけで、僕自身も話しかけることに本能的に恐怖を感じていたのも確かだ。
「自分も強くなりたい、ビクビク生きたくない、こいつらみたいに男として堂々として生きたい」
「なぜ自分はいちいち不安になって、彼らはガツガツと人生を進んでいけるのか」
自分も体を鍛えて大きくなれば、ある程度周りも自分の体を見て対応を変えるだろうし、それを感じた僕自身ももっとリラックスして人と対話できるかもしれない、もっと外への警戒ではなく、自分の生活にエネルギーを集中することができるのかもしれない。
そうだよヒョロヒョロのアジア人が、白人とかラテンの奴らに囲まれたらそりゃ怖いよ。
「ここで生き残るためにジムに行かなきゃ」
この言葉が最近僕の心の中でよく出てくるようになった。
